傍に居るなら、どうか返事を


「資料を…。」
 そこまで告げて黙り込む。苦い声だ、余程成歩堂に相談するのが嫌なのだと知り、当の本人は笑みを浮かべる。(もう、いい帰る)と言う響也を尋問し、こんな深夜にわざわざ来るなんて切羽詰まった理由以外にないだろうと追い詰めると、響也はやっと観念した。
「明日の裁判で想定される判決と同じ事例の資料が無くて。そう言えば此処で見かけた事を思い出して、それで…。」
「見に来たんだ? こんな時間じゃあ、公共の施設は全部閉まってるもんね。」
 にこにこと話し掛ける成歩堂に、響也はソファーに腰掛けたまま黙って頷く。
無駄足だった。そう付け加え、ぶすっくれた様子で呟く少年を見ているとなんとも、虐めたくなるのが不思議だ。いや、構いたくなる…だろうか?
 このまま帰してしまうのを惜しいと感じてしまう。
「どうして無駄なんだい? 今進行している裁判記録ならまだしも、昔のファイリングなら鍵の掛かっていない棚に置いてあるだろう?」
 そうして、所長室と書かれた扉の左右に、綺麗に配置された資料棚の前まで移動して、その扉を手の甲で叩いて見せる。
 見たことがあると言うのだから、響也がこの棚の存在を知らないはずはないだろう。しかし、響也は苦々しい顔で成歩堂から視線を外した。
「兄貴のファイリングは細かくて、本人じゃなきゃわからない分類なんだよ。」
 兄がいなければ意味がない。そう言う相手に、成歩堂は軽い調子で欲しい裁判記録を聞き出すと、幾つもある資料棚からファイルを取り出し始める。
 無差別に探していたって、時間の無駄だ。響也はそんな成歩堂には視線を戻す事なく立ち上がった。
「じゃあ、僕、帰るから…。」
 其処まで告げた響也の鼻先に、ピンク色の表紙が突き付けられた。
「これじゃあ、ないかな?」
 まさかと頁を捲る響也の表情が、驚愕に変わった。なんで…と問う瞳に、成歩堂は微笑んでみせる。
「確かに牙琉のファイリングは複雑だけど、丁寧に観察していれば法則を把握する事は可能だろ?」
 元弁護士らしい有能さを見せつけられ、且つ兄の友人であるという事の裏付けをされた気がして、響也は軽く唇を噛んだ。
 経験不足。
 この男と初めて法廷で争った時の気持ちが、いっそ恐ろしい程鮮やかに蘇った。そして、その時感じた不快感が響也の中で膨れ上がる。
「…捏造なんかしたヤツに説教されたくない。」
「こいつは失礼。」
 軽く躱される嫌味も、力不足を露呈しただけだ。苛立つ気持ちを押さえ込んで、コピー機へ向かう。何にせよ、咽から手が出る程欲しかったものではあるのだ。
 予備電源へと切り替わっていた機械のスイッチを入れ直すと、温度が上がるまでの待ち時間が表示された。
 3分。
 今の響也にとって、それはそれは長い時間だ。
 背中に成歩堂の視線を受け止めて、掌が汗ばむほどに緊張が走る。それでも、コピーをし終えるまで成歩堂が何かを仕掛けてくる事もなく、響也は内心安堵の溜息をついた。電源を切り、今度こそ此処を出られると足を踏み出した途端に、背中は壁に押し付けられていた。男の息が顔にかかる程近い。
 両肩を成歩堂に抑えつけられていた。力では敵わない事はさっき証明されている。悔しいけれど、胡散臭い笑みを浮かべる男をはね除ける事は叶わない。
「なん…ですか?」
「響也君。今度一緒に御飯でも食べようよ。勿論、君の奢りで。」
 成歩堂からの唐突な提案に、響也は目を剥いた。
「な、なんで僕がそんな事!?」
「いや、別に強要はしないよ。ただ、君はそのファイルを何処に戻すつもりかな?」
 響也は今コピーを取り終えたばかりのファイルに視線をやり、息を飲んだ。分類を把握していない以上、響也には元の場所へ戻す事が出来ない。目の前の男に託すしかないのだ。成歩堂の動きをしっかりと見ていれば良かったと悔やんでも、時間は元に戻らない。
 追い打ちを掛けるように、成歩堂は響也の耳元で囁いた。
「君が勝手に資料を触った事に気付いたら、牙琉は怒るだろうねぇ。」
 ぞくりと背に震えが来た。兄は面と向かって怒鳴ったり、手を上げたりすることはない。けれど、弟の不始末を決して許しはしないだろう。そういう人間だ。
「…わ、わかったよ。」
 悔しげな表情を一瞥し、ことさらに成歩堂の口元が上がる。
どうして、こうも目の前の少年が加虐心を煽るのかわからない。余りにも端正な貌と物腰だから、崩してみたくなるのかもしれないし、小生意気な態度にお仕置きをしてやりたくなるのかもしれない。 
 しかし、どれにしたところでそれは軽い悪戯心だ。自分から弁護士の資格を取り上げた相手に対して、普通に感じるであろう憎しみなど浮いてこない。
 その事に成歩堂は感心する。良くはわからないが、これが牙琉響也の持っている個性なのだろう。未成年であるにも係わらず、目立った不評を耳にしない原因が、ここにあることだけは理解出来た。

「で、いつ?」

 ふいに掛けられた声に、思考を飛ばしていた成歩堂は答えを返せなかった。
 すっとぼけた表情はかわらないから、響也はその事に気付いた様子はない。少しだけ小首を傾げて成歩堂を見返す。まるで、命令を待っている子犬のようだと思うと、笑いが漏れた。途端に返ってくるのは鋭い視線だ。
 そうして、さっき自分が持ちかけた『食事』の話だと思い当たる。生真面。この場限りの約束として反古してしまえばいいものを。
「明日でいいかな。場所はこっちで指定するから時間だけ教えてくれればいい。」
 強引に携帯の連絡先まで聞き出してから、言い含めるように告げると何だか泣きそうな顔で頷く。それが可愛らしくて、成歩堂は響也の額に口付けを落としていた。
 他意は無い。強いて言えば、可愛らしい子犬を抱き締めるのに似ている。
 何が起こったのかわからないといった表情が、耳の先まで真っ赤に変わり、今度こそ完全な涙目になってた少年は、成歩堂に噛みついた。
「ふざけんな!この、くそ弁護士!」
「くそ(元)弁護士だ。間違えちゃいけないなぁ。」
 揚げ足を取られて、成歩堂の腕を振り払い、ファイルを顔に投げつける。そのまま逃げるように出ていく響也の姿を見送る成歩堂は、高揚する気分を抑えきれずに、口だけではない笑みをその顔に浮かべた。


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